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手記「小児がんを語る」

お知らせ

2026年09月01日

第9回 3度の移植を乗り越え、奨学金受給で見つけた新たな自分

野球一色だった生活が、がんで一変してしまった奥野さん。2度の再発に3種類の移植を乗り越え、前を向いて精力的に活動する彼に、闘病生活や、奨学生としての経験、今後の展望を語っていただきました。


奥野 七夢(おくの なつむ) さん (24歳)


罹患時の年齢:15、16、19歳

病名:急性骨髄性白血病

【プロフィール】

小学1年生から野球に親しみ、数々の大会で活躍。野球の名門校への進学が決まった頃、病気が発覚。2度再発し、3度の移植を乗り越える。「はばたけ!ゴールドリボン奨学金」第10期生。

子どもの頃のこと、抱いていた夢

▲プロ野球選手になることを一途に夢見ていた頃

現在私は24歳です。最初にがんに罹患したときから約9年になります。

小さい頃から毎日のように外で遊び、よく走り回っていました。小学生になってからは、さまざまな習い事に通うようになりました。そのおかげで、野球、サッカー、剣道、水泳、囲碁将棋、バドミントンなどに触れることができました。

その中でも、1年生のときから続けていたのが野球です。地元の少年野球チームに入り、4年生にして6年生の試合への出場も経験しました。チームメイトにも恵まれ、京都や大阪の大きな大会でたびたび優勝や準優勝を勝ち取り、私自身も「最優秀選手賞」に選ばれることもありました。まさに私の人生は野球漬けで、野球が生きがいでした。1番ピッチャーというポジションで、野球を楽しみつくしていたと思います。もちろん将来はプロ野球選手になることを夢見ていました。

中学では硬式の野球チームに入り、さらに野球中心の生活を送りました。各地から集まった実力者を前に自信を失いましたが、悔しさをバネに努力し、2年生で3年生の試合メンバーに選出されました。3年生の引退後は周囲の期待に応えるべく、より練習に励み、翌年大阪代表として春夏全国大会に出場しました。その実績から地元や他府県の複数の高校から推薦入学を打診され、京都の甲子園常連校のセレクションを受け、入学が決まりました。

晴天の霹靂~病気発覚~

進学先も決まり、さらに日々練習に励んでいるさなかのことでした。冬に倦怠感・42度の高熱・食欲不振といった不調が現れました。4度もインフルエンザの検査をしましたが、結果はいずれも陰性。そのうち真夜中に意識を失い、救急搬送されました。

翌日、父に付き添われあらためて大病院で精密検査を受けました。検査結果を聞いて戻ってきた父に、「今からもう一つの病院へ検査に行こう」と言われ、近くの大学病院に行ったところ、そのまま検査入院となり、「いつ家に帰れるのだろう」と思いながら過ごしました。

一週間ほど経過した頃、治療方針について説明を受けました。2週間程度の入院を想像していた自分にとって、半年以上の入院を告げられたことはショックでした。当時15歳の私は、はっきりと“がん”であるとはイメージしておらず、ただ「学校に行けない」「野球ができなくなるかもしれない」という不安でいっぱいでした。

それが私の合計601日にわたる入院生活の始まりでした。

▲病室にて。抗がん剤で髪もすっかり抜け落ちました

2年遅れの高校1年生

最初の試練は、毎日部屋で過ごす息苦しさと、社会から離された孤独に耐えることでした。常に屋外にいた自分にとって退屈な日々。SNSは友人の卒業旅行や卒業式、高校の話題であふれ、取り残された気分でした。それでも前を向けたのは家族や地元の友人、病室で出会った友人の存在でした。特に病室で知り合った子とは、ゲームや学校の話題で交流し、その子の親と話すなど、次第に気分が和らいでいきました。

抗がん剤治療、放射線治療、臍帯血移植に9か月を要しました。ようやく高校に通えると思った矢先、再発を告げられました。退院時に見つかった疑わしい細胞を抑えるため分子標的薬を服用していましたが、効果が及ばず再発したのです。

「また治療か」と落ち込みましたが、一度乗り越えたため治療に対する不安はなく、とにかくやるしかないと挑みました。

2度目の治療は抗がん剤、放射線治療、末梢血管細胞移植でした。その回は早く見つかったこと、抗がん剤がよく効いてくれたこともあり、約半年の入院で済みました。そして2年遅れでようやく高校1年生となり、再び野球生活に戻れたのです。

2週に1回の通院を重ねながら、朝はボールを磨き、昼から夜の9時まで練習という毎日でした。自分と同じ1年生部員は、6月になると5人も辞めていました。私も猛暑の中の練習が堪え、体は悲鳴を上げていました。検査では異常が続き、ついにドクターストップがかかりました。

野球で入った高校で野球ができなくなった自分。そこにいる意味が分からなくなり、マネージャーの道を選ぶ気にもなれず、通信制高校へ転入しました。今思えば転校先では身体に無理をかけることなく通うことができたので良かったと思います。

再々発と余命宣告

通信制高校では順調に単位を取り、そろそろ大学進学を考える頃に再々発が発覚しました。最後の治療から2年を経過し、安心しはじめた頃でした。

すぐに病院に呼ばれ、3度目の治療をするかどうかの話をされました。主治医の先生からはいろんなリスクや副作用の話とともに、余命宣告もされました。そのときの私は19歳。「20歳まで生きたい」という思いから3度目の治療を決意しました。治療はなかなか効果が出ず、6か月の抗がん剤治療、放射線治療、3度目の造血幹細胞移植となる骨髄移植を受けました。移植中にはICUに2週間入り、何も食べられず25㎏痩せ、生死の境を彷徨いました。「自分に明日は迎えられるのか」と思いながら過ごす日々でした。それでもどうにか9か月の入院生活を終え、1年遅れで料理の専門学校に進学することができました。

ゴールドリボン奨学生として

2年の就学期間中は、ゴールドリボンの奨学金を受給しました。料理を学ぶきっかけは、入院です。入院中に何も食べられずに激やせし、その後ICUから病棟に戻ったときに食べたお粥のおいしさに感動し、食の大切さを思い知ったからです。いつか食の大切さ、おいしさを伝えられる人になりたいと思い、料理の勉強を始めました。

学生生活中は飲食店でのアルバイトもしていましたが、体力への不安から当初はあまりシフトを入れることができませんでした。奨学金のおかげで無理なく学生生活ができ、本当に感謝しています。

現在も料理を学んだ経験を活かし、時折イベントなどで料理をふるまっています。いつかは自分のお店を開きたいと考えていますが、今の自分には飲食店のような体力を消耗する環境に耐える自信がありません。そこで自分は何をすべきか考えたとき、多くの人に支えられ生かされた命を世のため人のために使うという結論に至りました。

▲勉強を兼ねて飲食店でアルバイトをしていました

がん経験者が生きやすい世の中に

私は今、医療従事者の学会や製薬会社、看護学部の学生などに向け、講演活動をして生計を立てています。将来はがんと闘う子どもたちをはじめとするさまざまな方に、生きる希望や勇気を与えられる存在になりたいと思っています。

現時点では晩期合併症や後遺症はありませんが、分子標的薬による治療を続けており、3か月に1度の通院で年間28万円の医療費がかかります。身体に配慮しながら仕事をする中で、この負担は重いと感じています。だからこそ、私のようながん経験者や障がいのある人が、少しでも働きやすく、生きやすい社会にしたいと考えています。そのため現在は、講演会で生まれたつながりを生かし、企業や経営者に働きかける活動に共に取り組む仲間を募っています。

これから多くの困難や試練があると思いますが、同じような経験をした子どもたちのために、社会の関心が高まり、支援が広がっていくように頑張りたいと思います。

▲学生のときから始めたがんサバイバー講師。講演中の様子です

このたびはこのような機会をいただき、ありがとうございました。

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